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蕎麦切りの起源と発祥地
わが国のソバ栽培は、五世紀の中ごろにまで遡るといわれているが、蕎麦切りとしての歴史は比較的浅い。江戸をはじめとする都市において大衆食として普及したのは、ようやく江戸時代中期になってからのことであり、また農村においても一般化したのは同じく江戸時代中期以降のことである。ただし、農村においては当時はまだ蕎麦切りはハレの日や振舞いのための御馳走だった。普及はともかく、そば米やそばがきに代わる新食品としての蕎麦切りの起源はいつ頃にたどれるかというと、未だ不明な点が多く確定はされていない。
享保十九年(1734)刊『本朝世事談綺』巻一、飲食門の蕎麦切りの条には、「中古二百年以前の書、もろもろの食物を詳かに記せるにも、蕎麦切りの事見えず。ここを以て見れば、近世起こる事也」と、室町時代の文献には蕎麦切りの記事が見当たらないことを書いている。実際、室町中期の通俗辞書ともいえる節用集の、慶長二年(1597)改訂版『易林節用集』に当たってみても、饂飩、索麺、斬麥など10種類余の麺類が記されているにもかかわらず、蕎麦切りの用語は出てこない。現在のところ、蕎麦切りの初見とされるのは、長野県木曽郡大桑村須原にある臨済宗妙心寺派の定勝寺の文書の中から、天正二年(1574)の仏殿の修理工事に蕎麦切りを振舞ったという記録がある。起源はそれ以前まで遡らなければならない。
森川許六編の俳文集『風俗文選』(宝永三年1706)に収録する雲鈴作「蕎麦切ノ頌」の書き出しに「蕎麦切というものは、もと信濃国本山宿(塩尻市)より出て、あまねく国々にもてはやされける」とある。また国学者の天野信景が書いた雑録『塩尻』の宝永年間の所に、甲州の天目山(山梨県東山梨郡大和村にある臨済宗棲雲寺の山号)から始まったという記述がある。ところが正保二年(1645)版『毛吹草』は、信濃国の名物として蕎麦切りを挙げて「当国ヨリ始ルト云」と記している。結局確証はないのである。
蕎麦切りの最初の食べ方は、後の盛り蕎麦の一式であった。けれども当時はまだ醤油などは出来ていない。味噌の垂れ汁に、薬味をこてこてといれて、それに蕎麦を侵して食べた。その薬味には、花鰹、わさび、唐辛子、海苔、陳皮などよりして、今では異様にに思われる焼き味噌やら梅干しまでも使った。その上に大根の絞り汁が、どうしても無くてはならぬものとされていた。それらの薬味は、食べるに当たって、各自が思い思いに好きなだけ入れて、味を調えたのであった。
元禄時代には、蕎麦はもう饂飩に対抗することの出来る人々の嗜好物となった。
蕎麦は、最初は盛り蕎麦の一式だったといったが、掛け蕎麦も相当に早くから作り始められた。寛延年間に日新舎友蕎子という蕎麦好きの人が著して、写本のまま伝えられている蕎麦全書というものがあって、その中に掛け蕎麦は江戸新材木町の信濃屋が元祖だとしてある。その掛け蕎麦と云うのは、なお後にそうなったので、はじめはぶっかけ蕎麦であり、蕎麦全書にもまたそのように書いてある。
夜蕎麦売駈落者に二つ売り
蕎麦切でさへも店やは汁少な
手打蕎麦下女前垂を借りられる
晦日蕎麦残った掛けはのびるなり

